内山達四郎先生 追悼記念集 |
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明治43年 4月28日 薩摩郡宮之城町山崎にて出生
昭和13年 3月 熊本医科大学卒業
昭和13年 4月 熊本医科大学東外科入局(現、第二外科)
昭和15年 4月 熊本医科大学外科医局助手特令
昭和16年10月 大東亜戦応召
昭和22年 6月 内地帰還 召集解除
昭和22年 8月 熊本医科大学第二外科研究員
昭和26年 8月 熊本医科大学第二外科医局 辞退
昭和26年 9月 内山医院へ(養父の開業を受け継ぐ)
昭和28年 4月 内山病院院長就任
昭和56年 県民表彰を受ける
昭和58年 9月 叙勲勲五等双光旭日章(地域医療に貢献)受賞
出水郡医師会より会長三期就任の表彰を受ける
平成14年 9月 内山病院退職
平成17年 6月16日 内山病院入院加療中
午前3時5分ご逝去(享年95歳)
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内山先生が好きだった椿の花 |
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ビルマ戦線、従軍医時代 |
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熊本医科大学在籍中(ご学友と)
左端:内山達四郎先生
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旧内山病院 |
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勲五等双光旭日章受賞記念祝賀会
写真左:内山達四郎先生・陽子奥様
写真右:(中央)内山達四郎先生 |
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市民表彰受賞式 写真左端:内山達四郎先生 |
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弔 辞
出水郡医師会を代表して、
故内山達四郎先生のご霊前に謹んで弔辞を捧げます。
昨日の朝、先生の訃報に接し、大変驚くとともに深い悲しみに包まれました。
先生は最近体調を崩されたとお聞きしておりましたが、生来とても偉丈夫でございましたので、古郷先生をはじめ、山筋先生やご家族の看病により必ず回復されるものと確信いたしておりましたが、その甲斐もなく本日こうして幽明境を異にしてお会いしようとは、いかに生者必滅とは言え誠に残念の極みであります。ご親族の皆様にはさぞご落胆のこととお察し申し上げ、心よりお悔やみ申し上げます。
先生は、出水郡医師会では最長老で私ども医師会会員は、今日まで温情あふれるご指導を賜り感謝の念で一杯でございます。
先生は昭和13年、熊本医科大学をご卒業後、直ちに第二外科に入局され、昭和15年には同大学助手に任命されましたが、太平洋戦争拡大に伴い、ご結婚間もない昭和16年10月に応召、軍医としてご苦労されたとお聞き致して居ります。
特に、大戦中、地上戦としては最も悲惨であったと言われる、当時のビルマ、インド国境のインパール作戦に従軍され、九死に一生を得て昭和22年6月、奇跡的に帰還されたとのこと、その間の逸話が、平成7年8月号の出水郡医師会会報に掲載されました。
復員後は直ちに大学にお戻りになり、更に研鑽を積まれ、のち昭和26年9月から内山病院を承継され、爾来、今日まで50数年間にわたり、阿久根、長島地域の医療一筋に大変なご貢献をいただきました。先生のメスで一命を取り留めた患者さんは枚挙に暇がない程であります。
その功により昭和56年には県民表彰、昭和58年9月には勲五等双光旭日章の栄えに浴されました。 また、昭和39年4月から昭和45年3月までの3期6年間、出水郡医師会会長としてご尽力いただき、鹿児島県医師会会長表彰、さらには学校医、警察医として30数年間のご尽力に対する数々の表彰もお受けになりました。
そのご功績は偉大であり、まさに超人的な活躍をしていただき、私どもにとっては誠に傑出した指導者でありました。改めてそのご苦労をねぎらい厚くお礼申し上げます。
先生はゴルフをされるでもなく、またお酒もいけませんでしたが、医師会の会合にはいつも進んで出席され、熊本弁を交えた軽妙な語り口で、人生の教訓をさらりとお話いただき、私どもに深い感銘を与えてくださいました。
ここにこうしてご霊前にありましても、お元気なあの頃のお姿を忘れることができません。
先生は、古郷先生、山筋先生というご立派な後継者を得ておられ後顧の憂いはございません。
特定医療法人昴和会は益々発展を続けていくことと思います。
まだまだ思い出は尽きませんが、公私にわたり賜りましたご厚情に深く感謝申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。先生どうぞ安らかにお休みください。
平成17年6月17日
出水郡医師会
会 長 中 村 徹
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出水郡医師会 中村会長 |
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阿久根市 斉藤市長 |
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弔 辞
内山先生 もう一度 こうお呼びすることをお許し下さい。
それは 長い間 阿久根市民が敬愛を込めて呼び慣れてきた 言葉であるからであります。
今 ここに先生と深い縁に結ばれた大勢の方々と共に 痛恨哀惜の情に耐えながら 悲しいお別れの言葉を申し上げます。
先生が最近 健康状態がすぐれないということを聞かされ 非常に心配しておりましたが まさかの訃報に接し 誠に悲しい限りであり 残念な気持ちでいっぱいでございます。
ましてや 御遺族の皆様方の御心中 如何ばかりかとお察し申し上げ ただひたすら哀悼の誠を捧げ 先生の御冥福を心からお祈り申し上げる次第でございます。
思い起こせば 先生は明治43年4月28日 宮之城で生を受けられ幼少の頃より向学心旺盛な中に 医療の道を志され 熊本医科大学に進学され昭和13年3月ご卒業になったのであります。 しかし 時あたかも戦雲急を告げる祖国日本の存亡の時に当たり 祖国の安全と平和を維持するため 大学をご卒業後しばらくして 軍医として奉ぜられ戦地においては 主にビルマ方面に配属され 戦線の第一戦にあって 自らの危険を顧みず身命を賭けて 日夜搬入される傷つき 倒れた負傷病兵の救護・診療にあたられたのでありました。
そして 昭和22年6月復員され母校である熊本医科大学の外科研究員として奉職され 医学に対する極めて高い理想のもとに 医学の研鑽に努められ昭和26年10月内山病院の後継者として迎えられたのであります。
以来 地域医療に日夜を問わず「私欲を捨て 人間関係を大切にする」という人間哲学をもって「身体の許す限り患者さんの面倒を見る」姿勢で これまで努力を続けてこられたのでありました。
その間 警察及び国鉄の嘱託医として検視・検案・鑑定等 法医学の分野を通じ 或いは負傷者の救護等により警察や国鉄の業務にも多大の貢献をされてこられました。
また 昭和43年7月から救急指定医として 医療機関の確保が極めて難しい状況の中 昼夜の別なく傷病者の救護医療に専心尽力されたほか 医師会の充実強化のために 出水郡医師会長をはじめ各種役員として 卓越した識見と情熱をもって 医学の向上振興と医療従事者の資質の向上等 医師会活動にも大きな足跡を残されたのであります。
さらに 阿久根市内小中学校の校医として 長年にわたり児童生徒の健康管理及び体力向上等に御尽力された一方 各種行政委員として 広範な活動を通じて地域医療に精励され 医学界の権威者として その徳望は阿久根市民のみならず 大勢の人々に等しく尊敬され 敬愛されていたのであります。
これらの地域医療発展のために築かれた 先生の御功績を称えて昭和58年春の叙勲に際して 勲五等双光旭日章の栄誉に輝かれたのであります。
今 思います時 先生の95年の生涯は 激動する明治・大正・昭和・平成の時代を 人の為 世の為に尽くしてこられた人生であったと 改めて敬愛の誠を捧げるものであります。
私たちは 先生にもっともっと長生きしていただき 阿久根市勢発展の行く末を御高覧いただき いつものように折にふれて 御指導を仰ぎたく期待していたのでありますが 天命は時をかさず 今 忽然として 黄泉に旅立たれました。
私たちは 先生から教えられた教訓を良く守り その業績を汚すことなく 阿久根市の発展のために一生懸命頑張ることこそが 先生の御霊を慰める唯一の道であり せめてもの感謝の気持ちであろうと思っております。
いつお会いしても あのやさしい笑顔の中に 私たちは心の中に安らぎを覚えこよなく人を愛することの大事さを諭され また この阿久根の地を誰よりも熱烈に愛された尊い御精神は 何時までも何時までも大切に受け継がれて行くことでありましょう。
ここに ご親族の皆様方をはじめ医療関係の皆様 友人・知人の方々 先生の御遺徳を慕う多くの皆様方と共に心からの御冥福をお祈りし 最後のお別れの言葉といたします。
内山達四郎先生 どうか安らかにお眠り下さい。
平成17年6月17日
阿久根市長 斉藤 洋三
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弔 辞
幾度となく病床の先生をお見舞申し上げましたが現実として訃報に接しますと一入悲しみがこみあげて参ります。
半世紀を通して暖めた友情が今更のように鮮明に浮かびあがってきます。
先生との出会いは戦後まもない昭和21年7月ビルマのラングーン郊外のゴム林のキャンプ地でした。復員後交友が始まり今日に到るまで兄弟の如くおつきあいいただきました。
仕事一筋で毎日手術を通した治療に励んでおられました。その間私もよく呼ばれ仕事を共にする中で貴重な技術指導をしていただいたり地方医個人開業の裏打ちの役まで与えて下さったことに心より感謝して居ります。
先生が郡医師会長をされた時に私も副会長を務めさせられ、ここで、出水市立病院問題の為上京し陳情にも関わりをもち、医師会仕事への勉強の機会をいただきました。
先生は仕事以外にも、スズ虫を飼ったりする一面を見せたり、唯一選挙においては仕事外の全力投球で熱血漢で訥弁をはばからず、もち前の理念を基に強い信念を貫き会員を引っぱり業績を残してこられました。
患者に優しく納得のゆくまで教えられ、慈父の如く傾注されました。
多忙な永い生涯を今やっと終えられ安堵されていることでせう。
どうぞ安らかにおやすみ下さい。
そのうち私も参りますので
その時又お話しませう。
平成17年6月17日
友人代表 来 仙 隆
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お父上様のご逝去の報に接し、痛惜の念たえ難いものがあります。
お父上には若い頃から大変可愛がって頂き、この年になるまで何かとお気にかけて頂きいろいろ御教導頂きお礼の言葉もありません。
また私だけでなく、お父上の卓越した医師としての識見と知識、技術の御世話になって助けて頂いた阿久根の市民の皆様、また医療の面だけでなく、いろいろ御世話になった阿久根の皆様は今日の訃報を聞いて追慕の念如何ともし難いものがあろうかと思います。
達四郎先生、先生は一つの確固とした価値観をお持ちであっただけでなく、それを不抜の信念と正義感を以て一生涯貫かれました。
素晴らしい一生でした。
春風人に接し、秋霜己を接する優しさと厳しさをお持ちでした。
最後に先生を病室に訪ねたとき、先生の優しい少年のような、それでいて意志の強さときびしさがにじみ出ているあの独特の眼差しは変わりませんでした。
いろいろ私に最後かとも思われるお話をされましたが、まだ話し足りないような感じでもありました。不敏の私ではありますが先生の言外のお気持ちとお考えを私なりに考えさせて頂きたいと思います。
ただ私はよんどころない用務のために先生の今日の最後をお見送りすることができません。
誠に申し訳ないことです。
何れあの世でお目にかかってゆっくりお詫びとつもる話をしたいと思います。
今はただ安らかにお眠り下さい。 合 掌
和 田 久
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平成17年6月16日 午前3時5分 ご逝去
午後6時より 斎場「ルミエールあくね」にて通夜が行われました。
平成17年6月17日 午後12時30分
内山家と昴和会の合同葬にて葬儀告別式が執り行われました。
内山先生を偲び、多数の方々のご参列またご供花、ご弔電も数多く寄せられました。
当日は、6月中旬の梅雨時期であったにもかかわらず、晴天。すがすがしいそよ風が吹く1日でありました。
ご遺族や職員並びにご参列いただきました皆様に見送られる内山先生はきっと幸せであったことでしょう。
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内山病院 前事務長 馬見新 正義 様
私は、昭和42年に内山病院に就職しました。学歴がない私を事務職として快く採用していただきました。
当時はパソコンもない時代でレセプトの作成も総て空っぽの頭脳に頼って暗記が重要なポイントであった。先生の期待に背かないために最大の努力をしなければならなかった。然し先生の温かい指導で23年間、無事勤めることができました。
退職するときは先生と別れることがつらく、男涙が先で言葉が出ないほどであった。
先生が勲五等の叙勲の折、記念の写真を居間に飾って朝夕拝んでいますが、「万年青春きばれよー」と言う言葉が聞こえてきます。今は亡き先生の写真と一緒に暮らすことが最高の幸せであり、心からご冥福をお祈りします。
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『内山先生の想いで』
元内山病院勤務 赤瀬川 功 様
私が内山病院にお世話になったのは、昭和37年2月から39年8月までで先生が体調を崩され回復されて熊大の先生方が交代で応援にこられ病院は戦争の傷痕が残った西洋風の建物であった。主な仕事は運転手でしたがトイレの清掃、窓拭き、レントゲン撮影と何でもする時代であった。
冬は製材所から薪を買ってきて小さく切り、手術室を暖め、夏は大きな氷を扇風機を使い冷やし、夜の手術の時は自動車のバッテリーを使い、停電に備えての手術で、熊大で4〜5人しか出来ない(熊大の医師の話)手術を1日に2〜3人もされていたものです。
最初、困った事は熊本弁で話されるので(「ジャンカデスタイネ」のように)なかなか意思の疎通がうまくいかなかった術前の手洗いにヤカンでお湯をかけるのがわからなかったことです。腰麻での胃・腸の手術から婦人科まで麻酔が切れれば動くため、動かないように手術台の下でさがっていたこともあり、熊大の先生方は勉強になると喜んでおられたものです。1日160人ぐらいの外来そして手術・往診と夜は2〜3時間しか寝られない毎日。警察医・鉄道医の仕事も多く、疲れていても「診察は断るな」が口癖でした。2回の大晦日も手術で終わったときは朝で、そのまま初詣に行ったのも忘れることはできません。
手術前には専門書に目を通し、終われば風呂に入る前に手術開始時間、終了時間から図を書き術前の診断、術後の診断と反省点等必ず記録されていました。外科医として責任とうまくなるための自分の勉強だとか、常に努力される先生でした。大きな手術で水俣市立病院の部長先生に呼ばれるときは、麻酔器をばらして持ってきて使い、深夜に組み立てて帰ってきたこともありました。(40年前のことで時効ですので)
たった3年の勤めでしたが、手術が終わる頃は五右衛門風呂をわかし、朝食も一緒で家族のようにかわいがっていただきました。悪いこともしましたが、私の青春であり財産でもあります。先生が最後に入院されたとき、病室で昔の話をしました。手術された人の話からよく記憶されているものとびっくりしたものです。翠香苑がどうなっているか聞かれるものですから見に行き、報告すると喜ばれ「一度見に行きたい」とのことでしたが、どうすることもできませんでした。
地域のため、阿久根のため医療に尽くされ、また多くの人の命を救われた先生でした。自分が生まれ育った山崎、戦友も最後まで忘れることなくベッドの上で思い出し、苦しい入院期間だったと思いますが、忙しかった先生にはちょっとゆっくりされた時間だったかもしれません。
3年勤めただけで今まで長い間お世話になり教えていただいたことを忘れることなく生きていくつもりです。安らかにお眠り下さい。
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昭和39年8月
戦争でただ1棟残った建物で柱の無い2階建の病院。
子供たちが遊びに来たり壊す前は建築家が調査に来たものです。(現在の検査室あたり)
前列左端:内山先生
写真提供:赤瀬川功様
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〜内山先生を偲び、いただいたお手紙より〜 |
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前略 ごめん下さいませ。
過日 内山達四郎先生ご逝去の御事伺い・・・まさか・・・とただびっくりいたしました。
先生にはいつまでも、いつまでもご存命にいらしていただきたいとお祈り申し上げながら、とうとうお見舞いもかないませぬまま何よりも心残りでなりません。
亡き両親が殊の他 お世話さまになりました。“神様のようなありがたい先生だ”と・・・よく聞かされておりました。 母など”先生に足などむけて寝られない“と、心よりご信頼、ご尊敬を申し上げていました。
父の最期をお看取りいただきました。先生のご慈愛のこまやかさ お人柄をなつかしく思い出しております。
ご家族の皆様はじめ阿久根市民の皆様もどんなにか落胆なさっておいでかと・・・伝わって参るようでございます。 本当に残念でなりません。
遅ればせながらご冥福をお祈り申し上げます。
遠方のためご焼香にも参れませず申しわけございません。
平成17年7月11日 大分市在住 主婦72歳
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『内山先生を偲んで』
副院長 山 筋 忠
最初の出会いは、昭和50年頃ではないかと思います。以来30年ほどお付き合いさせていただきました。いろいろ教えられることが多く、人生の師の一人として尊敬しています。
よく戦争の話をされました。想像出来ない状況におかれ、死に行く戦友を目の前にしてどんな心境であったのか想像がつきません。運だけでなく強い精神力と意思があれば何事も成し遂げられると教えられました。人への気配りも並大抵なものではなく、むやみに自己主張されることもなかったが、信念を持って話されていたのが印象に残っています。
日夜の区別なく、貧富の区別なく患者さまの求めに応じ診療されていました。なかなか出来ないことです。数十年間も続けてこられたことには、頭の下がる思いです。
医師としてどうあるべきかなど学ぶことも多く、今後の私の診療に先生の思いを生かして行くつもりです。間違った方向へ進んでいくようであれば、声をかけてください。
生前のご厚情に感謝するとともにご冥福お祈り申しあげます。また、一緒に仕事が出来ることを楽しみにしております。有難うございました。
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『内山達四郎先生を偲んで』
看護部長 日高 芳子
「いたずらに延命処置を講じるのでなく、人間としての尊厳を尊重し、残された時間をでき得る限り、有意義に快適に過ごせるよう協力を行う。」これが、内山病院ターミナルケアの指針である。内山先生を担当した3N病棟スタッフは、この指針どおりがんばってくれたと思う。
ところで私は、深く先生を知らないが、病院の行事に参加され、お話をされる先生の人柄に「ホッ」とするものを感じていた。また、ターミナル期にある先生の病室を訪れる度に先生の穏やかな表情から、宿命とは、使命とは、寿命とはと考えさせられた。それは先生の精神現像がそのまま現れていたからである。
亡くなる1日前、呻吟される先生に私は呼びかけた。「先生痛いですネ」と。先生は「痛いよ」と一言。これが私が聞いた最後の言葉になった。
ご家族の皆様に見守られながら、がんばって、がんばって寿命を全うされた先生、どうぞ安らかにお休み下さい。
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『内山先生の思いで』
事務局長 若松 清志
私が看護職の時、東町からはまちに餌を与える機械に挟まれ死亡して搬送された患者の無数の切り傷を「天国に行かれるんだから、綺麗にしてやらないと。」と言いながら、丁寧に縫合されていました。又、糖尿病の患者の壊死した下腿の切断手術の時、「落さんごとしゃん。」と言われてズッシとした感触が思い出されます。
初めて一緒に参加された平戸への職員旅行は、雨で楽しみにされていた、九十九島の遊覧が出来なかったけど、ソフトクリームを美味しそうに食べていらっしゃいました。
それから、結婚式の祝辞は、「忍耐と寛容の精神で。」といつも同じ言葉が出てきました。私も影響を受けて、結婚式の色紙には、“忍耐”と記入しています。今後も続けて実施していきたいと思っています。
法人運営について、いつも聞かれるのが「今年度の利益はどうだ。」「○○円です。」と伝えると、「職員の給与を上げてやれよ。」と、全職員の生活を心配されていらっしゃいました。入院中も病室に行くと、小さな声で「今年度はどうだ。」と聞かれ、「○○円です。」と話すと、笑顔で「後は頼んだぞ!」とハッパをかけられました。
そんな先生がいらっしゃらないと、寂しいです。天国から時々カツを入れて下さい。いままで全職員のわがままを聞いてもらい、優しい声を掛けて頂き感謝申し上げます。
お疲れ様でした。
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高齢者総合ケアセンター センター長 川内 勝範
私が入職して2〜3年した頃、職員旅行で私の故郷である佐多岬へ同行させて頂くことがありました。当時先生も60歳前後になられていたと思いますが、片道5時間の日帰り旅行で若い者にもかなりの強行軍でありました。道路事情が大変悪く、カーブの連続で更に駐車場から5〜6百メートルの遊歩道を歩きやっと灯台の見える断崖絶壁上に建つ展望台に到着しました。太平洋の大海原に種子島、屋久島が一望できる素晴らしいロケーションでした。
さぞお疲れだったと思いますが、30年も前の事で記憶も定かでありませんが「よかとこいやね」と、言って頂いたと記憶しております。
この旅行の事を覚えておられて10年経っても、20年経っても「まだ道路は悪かな」と聞かれるものでした。職員を分け隔てすることなく接し、どんなに激高されても決して後に尾を引くことが無くまさしく先生の真骨頂であり、多くの人々に尊敬された所以であったと思います。診察室の椅子に足を組まれて座られて眼鏡の奥でニコニコしながら、時には熊本弁混じりで世間話をしたり、助言や指導をして下さった事が昨日の事のように想い出されます。
今は亡き先生の御恩に感謝しながらご冥福を心からお祈り申し上げます。
合 掌
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『内山先生との思い出』
医事課 課長 赤瀬 忠徳
私は今から25年前、診察室で内山先生と初めてお会いしました。第一印象は「やさしそうな目」「相手を思う言葉使い」「年齢以上に若く感じられる風貌」でした。その印象は、当たっていました。仕事に対しては厳しくもあり又優しくフォローもして下さり、相手を思う気持ちが伝わり「何故怒られたのか」を考えなければならないような言葉使いでした。
時代の変化とともに医療保険も変化し、在宅医療も患者様の依頼(往診)から医療機関が計画的に出向く(訪問診察)方向へ移って行く中、80歳を超えた内山先生も時代に乗り「赤瀬 俺も訪問診察に行くから計画に入れろ」と言われ、私が車の運転をし2名の看護師を乗せ週1回水曜日の午後から訪問診察を90歳になるまで行ってもらいました。(当然の事ながら診察の患者様はほとんど内山先生より年下です。) 訪問診察の1番の思いでは、@患者様に訪問診察の都度言われる「歩行に注意しろ」「転倒だけはするな」という言葉です。私が介護支援専門員になって利用者宅を月1回訪問する度に内山先生が言われていた言葉(転倒しないように○○に気をつけて)をいつの間にか利用者・家族に言っています。又これからも内山先生の意志を継ぎ言い続けていこうと思います。A今の時期(7月・8月)に田代のそうめん流しに訪問診察中に連れて行かれたことです。「赤瀬、明日の訪問診察は何処だ」「鶴川内・田代方面」です。「そうか、そしたら明日田代のそうめん流しに行くぞ!昼食はあまり食べずに迎えに来い。看護師にそう伝えとけ」と言われ、なぜか明日の天気が雨にならないように願ったものです。今の時期、田代のそうめん流しの文字をみると内山先生に連れられ「テーブルを囲んで交わした楽しかった会話・一つ一つの仕草・美味しかったマスの塩焼き・刺身を私にもっと食べろと言って下さった事等」が思い出されます。又常に私の身体のことを気づかってくださった言葉。その中で一番心に残っているのが「両親に感謝しろ」です。いつも訪問診察中、車の中で、「いつ長島へ帰った」「両親は元気にしているか」「いつ電話をした」等言ってくださるので、出来るだけ毎週長島へ帰り親孝行の真似事をしていました。現在も言って下さっているようで毎週帰るように心がけています。私にも子供が出来た頃からその言葉の重さを痛感し、内山先生から言われた「両親に感謝しろ」を心に刻み又私の子供にも伝えられるような親になりたいと思っています。 |
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外 来 看護師長 桐原 照美
平成2年4月に私は准看護婦の資格を取る為、勤労学生として内山病院に勤務させていただく事になりました。診察室にいらっしゃった内山先生に挨拶に行くと「そうかそうか、頑張りなさい。」と暖かい声をかけていただきました。退室しようとした私に「ちょっと待ちなさい。」と大きな虫眼鏡で私の顔をじっと見て「あなたが嫁に行き四十、五十のばあさんになったら、私がほくろをとってあげます。そのままにしていたら皮膚癌になるとです。」と言われ「はい、お願いします。」と返事をしました。しかし、当時内山先生は80歳。18歳の私が40歳を迎えるには22年先です。その後、度々虫眼鏡で顔のほくろを診ていただきました。今考えると「私が取ります」という言葉は100歳まで医師として頑張るといった気持ちがその奥にあったように思います。私は大きな虫眼鏡を見る度、当時の事を思い出します。他にも、80歳を越えてからのアキレス腱の手術など頑張っていらっしゃった姿など思い出は尽きる事はありません。貴重な経験をさせていただき内山先生有難うございました。 |
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『内山先生の思い出』
外 来 看護師 池田 孝子
私が内山病院に入職したのは、今から14年前で内山先生は81歳になっておられましたがとてもお元気で毎日診察をされ、往診にもよく行かれていました。患者様の中には「内山先生でなければいかん」という方も多くいらっしゃいました。また、先生は私たちに戦争の話もして下さいました。昭和18年第2次世界大戦の中、日本は制海権・制空権もなく物資輸送も殆どない状態でインパール作戦に参加され一日に40kmも行軍されたそうです。そして、「戦争は悲惨だ。二度と起してはいけませんよ。」と、その一言、一言がとても印象強く心に残っています。先生はとても暖かい方でいらっしゃいました。内山病院で働いて先生と出会えた事にとても感謝しています。内山先生有難うございました。
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『内山先生の思い出』
外 来 准看護師 大平 なるみ
内山先生にお会いして24年になりました。先生の印象は医療に厳しくお話しの好きな先生だと思いました。初めて手術介助に付いた時、緊張も有り器械渡しが遅れ注意され、自分が情けなく涙が出そうになりました。でも終了後、先生より「慣れれば出来ますよ。かんばいやんせ」と言って下さいました。
ある日、腸閉塞の手術が深夜1時に開始し明け方4時頃終了し、その日の朝いつもの通り外来診察されておられ、すごいパワーを感じ頭が下がりました。すばらしい先生でした。
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2病棟 看護師 椿 貴美子
<ある日の出来事>「おーい 看護婦さん・・」診察室から、内山先生の声が聞こえてきます。今日は日曜出勤で外来には3〜4名ほどの看護婦がいました。先生が看護婦さんを呼ぶときは、年齢が一番高く、経験年数を積んだ看護婦さんが行くというのがお決まりでした。若かった私は、先輩の後ろで先生の顔色を伺うようにして、診察室に付く始末です。当時の先生は、何かあるとだれかれ構わず怒っていたので、「なんで怒られているのだろう・・・?」と理由も解らずに、ただ黙って先生のお小言が済むまでその場にいました。でも決まって「さっきは怒ってすまんかったね」と先生が謝ってくるのです。その時の先生の大きな目は、失礼ながらとても可愛く見えて、怒られて沈んだ気持ちがパッと晴れる感じでした。先生は「今日は何人仕事に出てるんか?」と、胸元に手を入れ財布を取り出しながら、聞いてきます。1万円札がたくさん入っている財布から、1枚取り出し「これでなんか買って、みんなでゆっくりしやんせ」と太っ腹な性格で看護婦さんを喜ばせていました。こんな性格の先生だったからこそ、地域の皆様に親しまれ、頼りにされていたのだと思います。私も先生が大好きでした。私の結婚式では祝辞も頂き感謝しております。ビデオには、先生の元気な姿も映っており、貴重な物として大切にしていきたいと思います。心からご冥福を祈ります。 |
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『天国の内山先生へ』
3N病棟 職員一同
内山先生、そちらではゆっくり休んでいらっしゃいますか?
生前寝る暇も無いぐらい休むことなく医療活動等をされ、多くの患者さんから慕われていらっしゃいましたよね。そんな中、先生御自身が病に倒れ約200日余りの苦しい闘病生活の中で過ごされた時間は、私達の心のなかに多くの思い出として残っていて忘れる事はないと思います。
先生は体がきつい中で、最後に私達に、ターミナル期の看護・介護を、身を持って教えて下さったような気がします。先生、私達は先生を通して学んだ経験、知識を今後も忘れることなく一人一人の患者さん、家族のケアに生かしていきたいと思いますので、これからも私達の仕事ぶりをゆっくり休まれながら天国で見守っていてください。
長い間本当にお疲れ様でした。 そしてありがとうございました。
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『内山先生の思い出』
3病棟 看護師長 赤瀬 加奈子
昔は休日出勤や時間外出勤をすると、「こぁこぁこぁ! こいで回転焼きを買うて食うやんせ」といって、○○○○円頂きました。とても人情味あふれた先生でした。
3病棟 准看護師 内木場 並子
内山先生にお誕生日やバレンタインデーにプレゼントをあげると、いつもニコニコされ嬉しそうにして「1万円」くださいました。とてもやさしい先生でした。
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『内山先生との思い出』
回生苑 事務長 黒蕨 和典
私の、内山先生との出会いは学生時代に遡ります。高校2年生の夏休み、8月2日に二人乗りの単車で阿久根駅前を通過しようとした時に右より単車の横に車が衝突してきました。後席の後輩は、柔道部であった為に飛ばされた拍子にうまく受身を取って事なきをえましたが、私は右足首に車が衝突した為アキレス腱を損傷、すぐに救急車で内山病院へ運ばれて内山先生より手術を受けました。この時が私の内山先生との最初の出会いでありました。お蔭様で手術も順調に回復して約1ケ月位の入院で歩けるようになり、その後はスポーツも出来るようになったのも内山先生のお陰だと感謝しております。 その当時から、市内の救急車は殆どが内山病院に運ばれており、昼夜を問わずに毎日忙しくされていたのを思い出します。地域の救急医療に貢献され今日の内山病院があるのだと思います。そして同じ職場にて一緒に働くことが出来たのも、何か縁があったのかも知れません。本当に永い間お疲れ様でした。
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『内山先生への思い出』
回生苑 准看護師 倉津 博子
私が内山病院に就職したのは、18歳でした。そのころの先生は、バリバリ元気でした。昼は、外来患者さんの診察、往診などされ夜は急患の診察や救急車も一晩で3台対応したときもありました。まだ、そのときは学生で何をしていいかわからなくておどおどしている時大きな目をして大声で怒られました。夜中などよく、OPがあったりすると先生は本宅よりラーメンやお菓子などを持って来て下さいました。先生いろいろな事を教えて頂き有難うございました。
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『内山先生への思い』
回生苑 看護師長 倉津 直子
私が内山先生と出会ったのは今から28年前の昭和52年4月11日です。内山病院へ初めて来た時、診察室に挨拶に行ったときでした。厚手の黒ぶちのめがねの下に大きな黒い目が印象的で一見怖そうにも見えました。私が内山病院に就職した時は、木造作りの建物とコンクリート2階建てがありベッドが65床だったかと思います。職員の数も35〜36名位でした。ほとんど空床もなく常に満床だったことを覚えています。それは、内山先生は、弱気者を助ける情の深い先生でした。365日24時間患者さんのため職員のため、阿久根の人のために身を徹して頑張っておられたことを思い出します。救急患者の受け入れから、消化器外科を専門に、整形外科まで一般の診察が済んだ夕方にかけて手術をされていた。私が准看学生の頃学校から帰ってくるといつも手術室の明かりがついていたのを覚えている。「あー、また手術だ。何時までかかるのかなー?」などよく思っていましたが、先生は必死に患者さんを救おうとされ、手術がなかなかうまくいかないと大きな怒鳴り声がよく聞かれましたが無事手術が済むと笑顔で、必ず、「すまんじゃったなぁー」と職員に謝られるのです。確かに怒られたときは後ろに飛びそうな位の勢いでしたので怖かったけど必ずあとのフォローがあり、優しい先生でした。朝、出勤してくると病室以外のところに患者さんが寝ていることが多々ありました。困っている人に対してとても優しい方でした。警察医・産業医・校医・他いろんな分野で阿久根に貢献されていました。特に警察医に関しては思い出がたくさんあります。長島の浜辺に水死の死体検案に行ったときのことでした。大きい岩が多く足場の悪いところで転びそうなところで「おはん達は気をつけやんせ」といたわりの言葉。そのあとなんと私たちの目の前で先生が足を滑らせ転んでしまいそれを見ていた私たちがびっくり慌てたことを思い出します。先生は自分がいつまでも若いと考えておられたようでしたが70歳は越えていたかと思います。
そして獅子島に夜、小さな船で先生と行ったことやそうめん食べたことや加治木饅頭を買ってもらったこと。思い出が次々と浮かんできます。先生にはいろんなことを教えていただきました。教えられたことは、何だろうと、考えた時、病気を治すことはもちろん「その人をそのひとらしく支えること」そして「まわりにいるすべてのひとを自分の持っているすべての力で救うことだと」決して言葉で教わったわけではありませんが、先生の姿を見ていた20数年間で私が感じ取った思いです。先生ありがとうございました。私は先生をみて育ちました。これから自分の体をゆっくりと休めて下さい。
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『私の思い出』
回生苑 准看護師 花田 多美子
「こら、こら」と、今でも先生の声を思い出します。私は高校卒業後、内山病院に入職させて頂きました。何もわからず、何も知らず毎日が良い経験、発見でした。その頃の事です。私は、学生!入職した頃は、だいたいが先輩看護師さんに付き診察室の介助に付かせてもらいました。午前中は、病院、午後からは、学校へと行ってました。診察室より患者様の名前を呼び入れる時、ある方の名前を呼びました。「ゆうこさーん」と、すると内山先生から「こらこら、そやタネと(夕子)さんと読んたぁが!」と・・・。苦笑いでした。私は「子」が「ネ」と読むのを知りました。失敗すると「看護婦さんを呼んできやんせ」と処置で、キャリアの長―い看護婦さんを呼びに行かされたのを覚えています。キャリアの長い看護婦さんたちには、迷惑をおかけしました。大きな目の先生!その大きな目で眼鏡ごしに注意を受け「シュン」としたもので何度か「ウルウル」ときたのを覚えています。でもしばらくすると、先生は、診察の間に「すまんかったねー」と、また、「ウルウル」したのを覚えています。そんな先生が好きでした。救急車対応で夜中まで診察されていても、又、早朝より救急車対応しながら診察をされたりとすごい、パワーをもってらしたのだといまさらながら感じています。本当に長い間頑張ってこられお疲れ様でした。
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『内山先生へ』
回生苑 准看護師 新留 道子
その昔、木造の建物が一部あり、家庭的雰囲気の中で働かせて頂き、今日までお世話になっています。内山先生の思い出、いっぱいあり喋りなら人一倍。文章となると・・・。先生から仕事を取ったら何が残るかというほど「仕事一筋」ではなかったのではないでしょうか?校医、警察医、ライオンズクラブと役員をされながら昼夜問わず、診察、往診、手術と頑張って居られました。救急車も頻回にき、今、考えるとこれも地域のために貢献されていたのだなと、つくづく思いました。 先生の口癖を思い出します。
深夜の診察依頼があると・・くれば診てあぐっとな
往診の依頼があると・・・何処な、準備しやんせ
外来では・・・一番年な者を呼んでやんせ
と、眼鏡の下から大きな目で見られ怒られた事もありました。今では、良い思い出です。
告別式の際は、30年来の職員、患者様の出席もあり内山先生の偉大さを感じました。ご冥福をお祈りいたします。
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『内山先生との思い出』
回生苑 准看護師 別府 厚子
私が始めて内山先生に会い、阿久根の地に降り立ったのは15歳の春。出水の山の中に育った5人は、阿久根駅から内山病院近くまであったアーケードに驚き、ウキウキ・ドキドキしながら歩き面接に行ったのはもう36年も前になります。私は36年も永い間内山先生・内山病院にお世話になっています。
今回、先生との思い出を振り返り昔の先生を思い出してみます。私は中学卒業しすぐに准看学校に入学しました。私は勉強は苦手で成績が悪い事も多々あり、その都度先生に怒られ励まされ2年間を過ごすことができました。先生の激励で卒業できた思っています。
卒業後も多々迷惑をかけてきました。仕事にだいぶ慣れてきた3年目の頃、先輩と5人組は仕事をボイコットし折口海岸に遊びに行った事もありました。先生には大変ご迷惑をかけてしまいました。はっきりとした理由は覚えていませんがその事をきっかけに、他の4人は退職し私だけが結婚という第二の人生の出発があり現在までお世話になっています。結婚後も働かさせて頂き子供も産んでからも暖かく受け入れて頂きました。子供も病院の中で暴れていましたが先生は長男を見て「こん子は黒の浜に捨ててあっても別府の子じゃっで連れてくるど」といつも可愛がって貰いました。
こんな事もありました。先生は目がとても特徴的で、救急指定の頃は手術もこなし、診察も多く忙しい時にはメガネの下から大きな目をギラギラさせ怒鳴られたことも多々ありました。特に手術が多く長く続いた時には、「先を考えてせんか〜!早くやらんか!」などと怒られていました。しかし手術が終わると、「ありがとう」と笑顔で言われその後、自宅からラーメンを持ってこられ「腹が減ったどがこよ食わんか」と渡された時、胸がジ〜ンとなり怒られた事がどこかに飛んでいった事もよくありました。
先生はよく人のことを気に掛けており、その人の気持ちになって声をかけられていた先生は本当に偉大な先生でした。
内山先生長い間有難うございました。お疲れ様でした。
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『生まれて初めては・・・』
回生苑 准看護師 黒崎 良子
「こん子はなぁ…」
聴診器を当てながら診察室付きの看護婦さんに話し始めます。それが毎年風邪をひいて診察に行くたびに聞く内山先生の言葉でした。
私の記憶にはないけれど、私が生まれて初めて目にした人は内山先生だったそうです。急に産気づいた母に驚き、祖父が呼んだお医者さん、それが内山先生でした。
以来、内山先生は診察に行くたびに「こん子はなぁ…」と話し始めます。話の結びも決まっていて「あの池はまだあっと?つつじがあったがなぁ」でした。
就職してからは、眼鏡の奥の大きな目が印象に残っています。文献を調べる時は、更に眼鏡をかけて、虫眼鏡まで片手にしていらっしゃいました。また、診察中は、その大きな目で、診察室付きの看護婦さんを見上げながら、患者さんと話しつつ聴診器を当てていらっしゃいました。とても器用だと思いました。
仕事の場ではそれほど多くの時を一緒に過ごしたわけではありませんが、その時々の先生の熱心な姿は今でも心に残っています。
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『内山達四郎先生の思い出』
回生苑 事務員 若松 喜久代
故内山先生が、効能書きなど小さい字を読まれる時、虫眼鏡を使われている姿がまだ瞼に残っています。
診察室では、スタンプ台、日付印、印鑑等決まった場所に置かれて、保険請求で印鑑を借り、その場所に返して無い時。電話を使用するのに、電話番号一覧表に番号が無かった時、「電話の前に大きく判るように書いて張り出せ」と、まん丸目玉で怒られた事が目に浮かびます。
土曜日の昼から、患者様が少ない時など「早よ、帰いやんせ」と、言葉をかけて下さった事。人形市に行って、回転焼きを買って来て下さり、皆でおいしく食べた事など、先生から、やさしさをいっぱい貰いました。
私は、小学校の時、怪我をして「あとが残らんごと縫うてやっでな」と言って、縫合してもらい又両親の事もよくきずかって下さり、「1年に1回は検査をしやんせ」と声をかけて下さいました。花が好きだった先生、桜が咲き季節が巡るごとに、花を見ては、先生の事思い出すと思います、長い間お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
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回生苑 看護師 竹之内 美紀子
内山先生との出会いは、23年前、私が准看の学校を卒業してすぐ内山病院に入職し先生の診察の介助に就いたときでした。何をどうしたらいいのか不安な気持ちで介助にあたっていましたが、診察室での先生と患者さんとの色々な会話を聞き、楽しそうな雰囲気のなかで、いつのまにか私の心も和やかになりました。その時の先生の顔が、ついこの間のように想い出されます。眼鏡の奥の目がとても素敵でキラキラと輝いていました。患者さんが診察室から出て行かれた後ニコニコしながら、『あの人は、昔は可愛かった』と、うれしそうに話をなさいました。患者さんとの付き合いの中で、ずっと長い間見守ってこられたのだなと思いました。
また、以前はよく交通事故や急病で救急車が多く来ました。重病患者に対してはすぐに応急処置をし、他病院に搬送をするときは、すばやい判断力で処置をされていました。その折々に緊張感があり、とても多くのことを学ぶことが出来ました。
その人その人にあった会話をされ、いつも気軽に誰にでも声をかけられ、誰もがゆったりとした気持ちになり心が和んでいく、そのような素晴らしい先生でした。心からご冥福をお祈りします。 |
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昴和会 理事長 古郷 米次郎
去る6月16日享年95歳で死去された当法人前理事長 内山達四郎先生の内山家・昴和会、合同葬儀告別式が翌6月17日 斎場「ルミエールあくね」でしめやかに執り行われました。昨年8月直腸癌の診断を受けましたが、その時点ですでに病勢苛酷にて9月初め阿久根市民病院で開腹頂いたにも拘わらず主病巣切除不能のまま結局人工肛門造設のみで閉腹する事となりました。
亡くなるまでの最後の10ケ月間、恐らくかなりの苦痛があったと思われますが、取り乱すこともなく静かに自分の運命を受け止めて、まるで生き仏を思わせるような穏やかで威厳に満ちた御顔は棺に入れられた時もそのままであり続けたのが印象的でした。 |
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通夜と告別式両日にわたり阿久根市内外から約1300名にも及ぶ参列があり、故人に縁ある方々や先生を慕いその死を惜しむ方々にとっても改めてその偉大さを感じさせた日でもありました。
先の戦争で6年間も従軍医師として応召され史上名高い悲惨なインパール作戦に否応無しに参戦させられビルマの山中を逃げ惑い九死に一生を得、やっとの思いで帰還した故郷阿久根は市街地を中心に大空襲で焼け野が原となっており、あまりの荒廃ぶりに呆然自失の感に陥ったそうであります。その時に芽生えた気持ちが後の先生の死生観に影響を与えたという事は想像に難くありません。生き残り救われた命、その後の人生を阿久根地区の戦後復興と住民の命と健康を守ることに捧げる事を堅く心に誓い、この地で開業医として再出発をされたのであります。そして60年もの長期間、住民と共に歩まれた診療一筋の一徹な生き様と活動の具体例は枚挙に暇がありません。往診を地域医療、開業医の原点と位置づける傍ら学校医、警察医、鉄道医、産業医など兼ねながら、住民検診、予防接種等にも積極的に参加、またある期間(3期6年)出水郡医師会長としても会員の先頭に立ち医療行政にも参画具申、多くの仕事を精力的にこなし文字通り地域に生きる臨床医の典型をみる思いでもありました。90歳を過ぎてもなお不定期ながら外来診療を継続されていた日々の生活態度を見るにつけただただ畏敬の念を禁じ得ません。このような高い志と強い精神力、それを支える生来の身体的頑強さを奢ることなく誰よりも他人に優しくそれでいて己にはあくまでも厳しく、人生を誇り高く生き抜いた先生の地域医療への理念を引き継ぎ見習いながら、翻って我々もどのように時代が変化していこうともこれからの医療・福祉・介護の分野でさらに多くの人々に今まで以上に信頼と期待に応えられるように努力しなければなりません。今、ここに万感の思いを込めて先生への惜別の辞を送り御冥福をお祈りしたいと思います。
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副院長 今 村 章
昴和会内山病院前理事長であられた内山達四郎先生が平成17年6月16日ご逝去されました。
内山達四郎先生は、昭和26年に内山病院へお戻りになられて以来、内山病院の基礎をつくり発展させ、今日に至るまで我々全職員を指導してこられました。我々全職員にとりましては、まさしく父と慕い師と仰ぐ偉大な先生でございました。そのため、ご遺族の方々のご許可を戴き、6月17日に葬儀告別式が内山家と昴和会の合同葬としてとり行われました。葬儀は先生の生前の御業績と御人柄ゆえ、病院関係者のみならず、また遠方からも多数の方々のご参列を戴き、しめやかにそして厳かにとり行われました。 |
今年は終戦後60年目にあたります。内山先生は61年前の昭和19年にビルマ戦線でインパール作戦に従軍されました。はるかアラカン山脈を超えて、インドをうかがった作戦には多大な無理があり、補給路を断たれた日本軍は英印軍の前に苦戦を強いられ、戦死者戦病死者合わせて7万2千人あまりを出し、生存者数は1万2千人のみであったという大激戦の作戦でした。歓迎会などでゆっくりした時間があるとき、先生はしばしばその当時の話をして下さいました。
日本兵は弾薬も食料も尽きた雨期のビルマで生死の境を彷徨う状態だったそうです。戦場で大変な体験をされ、それでも奮闘される先生の御姿が目にうかびました。「今はね、命を取られる訳ではないでしょう。食べるものもあるでしょう。みんな頑張らんといかんのですよ。そうでしょう。」先生のお話をうかがっていると、我々戦争を知らない世代の悩みや愚痴などほんとうに取るに足らないもののように思われました。先生が復員されてから、更に外科学の研鑚に励まれ、幾多の困難を克服しつつ地域の医療に貢献され続けたのは、このときに先生がお考えになられた事、そして形成された哲学に裏付けられたものであったろうと察せられます。
病院には内山先生が現役であられた頃に、一緒に仕事に従事できたスタッフが残っています。山道をバイクで行ける所まで行かれ、後は歩きに歩いて往診をなさったそうです。夜中であろうと明け方であろうと必要な診療を断ったことはなかったそうです。大きな手術、難しい手術もたくさんなさったようです。先生は仕事には厳しく、スタッフも時には叱られたり、手術中に手の動きが正しくない時など厳格に正されたりということもあったようです。しかしそういう場面の話をするとき、スタッフは決まって皆一様に楽しそうなあるいは嬉しそうな表情を見せるのです。先生のお人柄ゆえと思われます。これは、厳しい指導の裏にある愛情をスタッフが感じ取っていたからに相違ありません。
現在でも日々の診療の時に、内山先生の実施された手術創のある方をたくさん見かけます。これらの方々の多くが先生の手術を受けられて以来、当院をかかりつけとされておられます。また御家族の方が先生の診療を受けられてから、自分も当院を受診するようになったという方々も大勢いらっしゃいます。このような方々を診療するにあたり、我々は先生の御活躍された基礎のもとで働けているのだということを強く再認識致します。
先生は多くの人にたくさんの教えや思い出を残して逝ってしまわれました。我々はもう先生の生のお声を聞く事が出来ません。告別式の時にも誓いましたが、我々残された全職員は内山先生の御意志を継ぎ、地域医療に貢献するという昴和会内山病院の社会的責任を果たせるように精進して参りたいと考えます。先生、どうか我々をお見守りください。ありがとうございました。 |
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『事務長をお願いしますネ。』私が受付に配属の頃、幾度となく受けた電話。事務局へ配属となり、その電話の内容を知りました。病院の利益・新事業に関することなど確認の電話でした。ご引退後も常に病院の経営のことを気にかけておられたのです。
今回、内山先生の追悼集を発行するにあたり、多くの皆様にご協力いただき、ありがとうございました。素人ゆえ決して見映えの良いものではないかも知れませんが、この追悼集からは内山先生の“仕事に対する信念の強さ”、“人を思いやる優しさ”が伝わってきます。皆さんもそれぞれに感じるものがあったことでしょう。
時代は変容を遂げました。物の無い時代から、物のあふれる時代へと。携帯電話やインターネットの普及によりいろいろな情報をこの小さな阿久根で得ることができます。でも、昔のように顔を合わせて話をし、人から人へと語り継がれる話こそ私たちが忘れてはいけないことだと実感いたしました。
内山先生、これからも昴和会のことを見守っていて下さい。(餅原)
【編集委員】
中尾敬子 竹島敬子 橋口美智子 中村あすか 佐藤圭輔 田上マミ 中村武 安村京子 松田理香
指宿朝美 町田絵里 有村なぎさ 村原修 児玉裕子 島嵜春奈 富澤聡美 尾崎幸子 谷口由美子
山下さおり 田丸尚美 餅原里美
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